昭和51年07月19日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「食物はみな 人の命のために天地乃神の造り与えたまうものぞ。」

 食事をする時に皆さん必ず唱えて頂く、あまりにもざっと頂いておる、簡単に頂いておる感じがするんですけれども、この御教えこそ私はあらゆる宗教宗派の持たない素晴らしい御教えだと思うんです。金光教のいうならばどんなに素晴らしいか、いわゆる普遍性に富むという、れはどこの国の誰が頂いても合点のいく御教えだと思うです。そういう意味で普遍性に富んだ御教えだと、しかもこれは金光教独自のものだとも思います。食べ物を合唱して頂くと言った様な事は、皆んなあらゆる宗教が申しますけれども。
 みな人の命のためにというところが素晴らしいです。いわゆるみな人の命のためにです。ある宗教では豚は食べても牛は食べてはならないとか、牛は食べても豚は食べてはならないという妙な宗教があるんです。またある宗教ではあのアルコ-ル分はもう絶対取ってはならないと言う様な宗教もあるです。生きておる物を殺して食べる、もうそう言う事は以ての外だと言うて、精進を強いる宗教もあるです。
 それこそ魚であろうが肉類であろうが、お酒類であろうが、自分の血になり肉になる、いうならば血の巡りが良くなる事の為に頂く、お酒であったり肉であったり魚であったりする、そういういわば食べ物をです、命の為に頂けよと仰っておられます。がぶがぶ食べろとか腹一杯食べろとは教えてない、命のために頂けよという事、私はこの頃夜のお食事の時にはあまりにも沢山ご馳走がありますので、もう家で作っておる必ず誰かが親先生にというて、もう二品、三品皆さんが差し入れをして下さらん事はないです。
 ですからもうお膳の上はもういうなら百味の御食なんです。ですからもう半分ずつ頂いてももう御飯が頂けん位あるんです。だから私は皿半分ずつを頂くようにしております。そりゃあ美味しいから食べれん事はないですけれども、命のためにと思うからです。美味しいからいうならがぶがぶ食べて、あぁ食べ過ぎたと言う様な事であっては、命を害するために食べる事になるのです。だからここの道理ならばです、日本人だけではない、アメリカ人だけではない、支那人だけではない誰でも分かるだろうと思うのです。
 食物は命のために頂くんだ。それに食物を大事に思うあまりにです、ねまっとったっちゃ食べっしまわなければ勿体なかとか、皿に残してはならないとか、そう言う事ばもし言うとるならです、ならアメリカの方達の食事を見ておるとですね、もうそれこそ洋食皿にゃ一杯こう残っておる、そげんとはすすいでなめるごとして食べにゃごて、罰かぶるばのと言うごたる風に言うなら、アメリカ人には通用せんです。そうでしょうが命のために頂くんです。勿論ねそうして悪い事はありません。
 私共でもやはりお皿に小皿に残っておる、お醤油は漱ぎ上げて頂きます。こりゃ勿体無いけどそうしなけりゃならんとは教祖は教えておられないです。命の為に頂けよです。夏になりますと食べ物が、どうしても冷蔵庫に入れとっても、悪くなったりする事があります。本当にいわば注意をしなければならないと言う事は、命の為に頂かなければならないものだから、注意しなければいけんのです。だから本当に拝んで拝んで拝み抜いて頂かなきゃならんという事を感じますね。
 この事はほんなら世界の誰でもがです、拝むという内容が分かれば分かる程です、誰でも合点がいくのです。有り難いとか勿体無いとかという心は誰にでも持っていけれます。けれども金光様の信心すりゃあ肉は食べられん、金光様の信心すればお酒は飲まれんというと、これは世界万国に通用しない、金光教の信心はそういう意味でです、御教えの全てがいわゆる普遍性にとんでおりますから日本人だけではないどこの人にでも通用するように出来ておる、というたらおかしいですけれどもやはり神乍らです。
 教祖様の教えの素晴らしい事を、私はこの食物訓からだけでも感じさせて頂く事が出来ます。そこでなら私共お道の信心をさせて頂く者がです、命のために頂くという風に頂く姿勢というものを、いよいよ作らなければいけません。偶には苦いものも臭いものもやはり好き嫌いというものもがありますけれども、それではいうならば偏食になる。命のために頂くためには少しは嫌いなものでも頂く習うて、おかげを頂きますところに、いわば調和のとれた健康が約束されるのです。命の為なんです。
 命の為に臭いものも頂かなければいかんのです。命のために場合には苦いものも頂かにゃいかんのです。血の巡りが良くなるためにお神酒の一杯は有り難いのです。けれどもそれに酔いしれてしまう二日酔いをする。そのために胃を壊すそういう飲み方はこれは絶対私はご無礼だと私は思いますね。もうそのご無礼だけででも、私はおかげ頂かんと思うですね、適量というものがあります。適量の酒ならば自他を益します。また適量の酒なら最高の心の慰めになります。
 言うならばです、昨日の御理解から言うならば、リラックスになる事が出来るです。どういう心配事があっても、一杯お神酒を頂いて機嫌良うなるとです、もうその心のうさも晴れてしまいます。そういう素晴らしい作用があるんです。だから本当に御神意を体してと言う事はです、お酒を頂くでもお食事をさせて頂くでも、昔から夜食は命の切り売りとさえ言われております。皆さんが五つの願いの中にどうぞ体の丈夫をと、家庭の不和があってはならぬ。
 家庭に不和があってはならん為には、人を責めぬという様な修行をさせてもろうて、家庭が円満になる、二つ、体の丈夫を願えと仰るからその代わり願うからにはです、大酒大食をして命を壊す様な事は致しません、間食どもさせて頂く様な事は、いわば命の切り売りの様な事ですから致しませんと、いう位な修行は出来にゃいけません。私はこの五つの願いが始まってから、間食を致しません。
 十二時までも一時までも起きとりますから、以前はいっちょラ-メンでも作らんかとか、ちょっとお茶ずけいっちょ作って来んかと言った様な事もございましたけれども、この五つの願いを特にこの食物の命の事を、健康の事を願う事になりましたから、命の為には頂きますけれども、命を害する為に食べては、神様にお粗末になるご無礼になると思うから、頂かん事に決めました。私し教祖の御教えを体するということは、そういう精進をやはり出来なきゃいけんです。
 金光様の御信心をしておって、言うならば食べ過ぎて命を壊すような、飲み過ぎて酔狂の出るような、自他共に困るよう難儀をしなければならないような、頂き方ではもうその事だけでも教祖の御教えにもとる事になるのです。私はこれはもうそれこそ偉大な御教えだと、世界のどこの誰に持って行っても、はぁ金光教の信心を今の私が皆さんに聞いて頂いた様な事を聞いてもろうたらです、支那人でもアメリカ人でも、はぁ金光教の信心は素晴らしいと言うに違いはありませんです。
 けれども勿体無いからね、その洋食皿でん何でん奇麗に洗うようにして、食べなんち言うなら、もうそれだけでいけない事になるでしょうね。もうそういう意味で実にいうならば、もう理を尽くした御教えです。しかもそれが金光教の独特の御教えだということを、分かれば分かるほど、その独特のものを頂いておっても、独特のおかげを頂かなかったら値打ちはないじゃないですか。今日私が皆さんに聞いて頂く食物訓を、そういう独特のものだから独特の頂き方をして、独特のこれだけでもおかげ頂くです。
 これをね徹底して家族中の者に、真から有り難くいんなら拝まずにはおられん、合唱せずには頂かれないと言う様な、風習を自分の家庭に頂かしてもろうて、いうなら食べ過ぎる様な事があっちゃご無礼、飲み過ぎるような事があっちゃという、徹底した私は教えを金光教の信心をさせて頂く者の家庭に、これは堅く守らなければいけないと思います。同時に私はこの御教えからです、感じさせて頂くのは昨日から申しております、三代金光様のお言葉であります、皆さん覚えられたでしょうね。
 昨日次賀皆さんに申しましたこと、私は今朝からまた忘れとった。どうしてこげん頭悪かじゃろうか、あがしこ繰り返し繰り返し人に聞いて頂いたんだけれど、ええっとあれはとげなん事じゃったじゃろうか、意味だけは分かっとる。確かに有り難く頂かにゃならん、そうしなきゃ有り難く頂かにゃ物事が成就しないと言う事だったけれども。そのそうですですから私ここに書きました。『有り難う有り難ううけていかんと物事成就致しません。』だから食物も物事も理屈は同んなじであります。
 人間の命の為にいうなら、人間の幸福の為に苦い物も甘い物もあるのです。それを適当に頂いている。神様は私共の前に食べ切れない様なものを出しなさる筈はないです。この食物訓からです、いうなら昨日から頂きます、金光様のいうなら有り難う有り難う受けていかなければ、頂いていかなければ物事は成就しないと仰せられるのですから、いよいよ全ての事を有り難う有り難う受けさして頂く稽古を、本気でしなければいけません。
 そしてなぜ有り難くならなければならないかという道理を、本当に分からせて頂かなければなりません。道理だけが分かって実行しないならば、論語読みの論語知らずになります。こういう難儀な問題がどうして神愛なのか、こういう難儀な問題をなら黙って合掌して受けなければならんというのは何故なのかという風にです、究明していってそこのところの本当のことが分からせて頂いて。有り難う有り難う受けてゆかんと、物事成就致しませんということを、心の底にしっかり頂きとめて。
 全ての事を頂いていかなければなりません。言うならばいよいよ成り行きを尊び大切にしなければいけません。全ての事柄に言うならば御の字をつけて行かねばなりません。食物もやはり御食物として頂かなければなりません。それが血に肉になり健康が約束される、人間の幸福が約束される。そこでなら有り難う有り難う頂くという、いうならば食物でもです、生で食べろとか腐ったものを食べろとかとは決して仰らない、命のために頂けと仰るのですから。
 一つの問題でも何事でもです、それに味をつける又はそれを煮らなければならないものなら煮て、洗わなければならないものは洗うて、ここんところだけは食べられんという所だけは、取り除いてというのですから、結局本当に有り難う有り難う頂けないはずは絶対ないです。誰かが金を貸してくれと言うた、だから何事でも有り難く頂かなければならんからあぁそうかと言うて、貸せと言う様なものじゃ決してありません。その金を貸すと言う事を見極めなければなりません。
 果たしてその人がその事によって助かるか、いや却って貸してやる事が助かる事につながらないならば、ここは心を鬼にして断る事が有り難く頂く事です。貸した方がどのくらい自分が持っとるとじゃけん、気分が良いか分からん。けれどもその貸した事が却って相手に贅沢な心を起こさせたり、困った結果になる事であると見極めたならば、心を鬼にしてでも貸してはならんのが見極め方です。私はその辺とこをみんなが間違えたら、なんにも御の字をつけて有り難く有り難く頂けと言われるから。
 それこそもうそれこそいつも言う様に、ホウレン草についとる土でんひげんでん、それからもうまっ黒うしてから、削ってからでん食べなんようなとこでん、食べにゃならんと言う事じゃ決してないです。命のために頂くのです。自分が幸福になるために頂くのです。だから煮らなければならないものは煮らにゃならん、取り除かにゃならんところは取り除かせて頂いて、自分の幸福のための頂き方を身に付けて行くということ。これは私は食物、物事、全ての事に通ずる生き方になる。
 だから食物訓を本当に分からせて頂いて、世界中の人にこの道理を分からせらて頂いて、これは食物だけではないよ、天地が与えるところの様々な問題でも、天地が求める様々な修行であってもね、それをこういう風にして頂くということが、有り難う有り難う受けて行けば、有り難う有り難う受けていかんと物事成就致しませんよという意味が、食物訓から、私は食物訓の例を持って聞いて貰うならば、世界中の誰にでも分かると思うです。そういう意味で言うならば天地書き付け。
 生神金光大神天地金乃神一心に願え おかげは和賀心にあると仰せられる、その和賀心を持ってしないと見極めがつかん、和賀心を持ってしないと頂けない、こんな苦いものは嫌、こんな臭い物は嫌と言うて、向こうに押しやったんでは言うならば幸福はそこから崩れます。体はそこから変調が起って参ります。偏食になるからです。そこんところのバランスのとれたおかげを頂かしてもらう。
 今日は食物訓から、昨日の三代金光様のお言葉を引用させてもろうて、有り難う有り難う頂かなければならない、でないと物事成就しない、でないと命の為に与えてく下さったもの、いうならば人間が真実幸せになる事の為に与えて下さる諸問題をです、有り難く受けない事では、本当の人間の幸福を頂く事は出来ません。食物訓、即私はこれは金光教の信心の芯とも土台ともなるような大変な、しかも世界の何処へ持って行っても通用する、普遍性にとんだ御教えだということを聞いて頂きました。
   どうぞ。
 金光様の言葉を忘れたと言うたでしょう、そん時お勇みがあったそしてお願いしたら、お前はもう忘れたっちゃ実行できているから忘れてもいい、私はなぜ忘れるか、私は実行できているからすぐ忘れる。頭が悪いけんじゃない。
 ?以下の追加の言葉音声録音にはない。